amazon商品詳細
![]() |
トーマの心臓 Lost heart for Thoma (ダヴィンチブックス)森博嗣/萩尾望都(原作)¥ 1,575 メディアファクトリー 2009-07-29 評価:3.0 (カスタマーレビュー 17 件) amazonランキング 72181 位 |
この商品を買った人はこんな商品も買っています
カスタマーレビュー/新着5件
2009-12-30 評価:3 『暴挙とも思えるが、意義のある作品』
言わずと知れた萩尾望都の名作マンガの小説化作品。
原作と違い、大正か昭和初期の日本を舞台にした作品で、登場人物たちはそれぞれあだ名で「ユーリ」「エーリク」と原作の名前で呼ばれている。(オスカーだけはハーフという設定で本名)
原作とは別の作品と割り切って読んでみたが、主人公たちの設定が大学生のはずなのにどうしても高校生にしか見えず、物語にのめり込むことができなかった。
ただ、その内容は萩尾ファンとしては受入れがたいが、本書の出版は森ファンに萩尾名作を紹介したということで大いに意義があると思う。
原作者の萩尾望都は常に新しい試み・新しい作品を求めるあまり、過去の作品にあまり執着していない。そのため、若い世代に過去の名作が読み継がれていっていない。
例えば『ポーの一族』は「CREA」1992年9月号のアンケートで少女マンガ第1位だったのが、2008年9月号のアンケートでは24位と大きくダウン、さらに『トーマの心臓』に至っては前回10位から85位へと大暴落である。
それは、同時代の池田理代子『ベルサイユのばら』が前回3位に対し今回13位とあまり大きくは落ちていないことと比較すれば分かることで、作者が過去の作品について、新しく特集やイラスト集、新しい作品などの出版を通じてアピールしているかいないかの差であることは明らかである。
そして、このままでは未来に託されるべき文化遺産であるはずの萩尾作品が、若い世代に読み継がれないまま、いずれは消滅してしまうだろうとの危惧を抱いている。
願わくば、本書を読んだ新しい読者が、これを機に萩尾原作を読んでもらえればと思っている。
原作と違い、大正か昭和初期の日本を舞台にした作品で、登場人物たちはそれぞれあだ名で「ユーリ」「エーリク」と原作の名前で呼ばれている。(オスカーだけはハーフという設定で本名)
原作とは別の作品と割り切って読んでみたが、主人公たちの設定が大学生のはずなのにどうしても高校生にしか見えず、物語にのめり込むことができなかった。
ただ、その内容は萩尾ファンとしては受入れがたいが、本書の出版は森ファンに萩尾名作を紹介したということで大いに意義があると思う。
原作者の萩尾望都は常に新しい試み・新しい作品を求めるあまり、過去の作品にあまり執着していない。そのため、若い世代に過去の名作が読み継がれていっていない。
例えば『ポーの一族』は「CREA」1992年9月号のアンケートで少女マンガ第1位だったのが、2008年9月号のアンケートでは24位と大きくダウン、さらに『トーマの心臓』に至っては前回10位から85位へと大暴落である。
それは、同時代の池田理代子『ベルサイユのばら』が前回3位に対し今回13位とあまり大きくは落ちていないことと比較すれば分かることで、作者が過去の作品について、新しく特集やイラスト集、新しい作品などの出版を通じてアピールしているかいないかの差であることは明らかである。
そして、このままでは未来に託されるべき文化遺産であるはずの萩尾作品が、若い世代に読み継がれないまま、いずれは消滅してしまうだろうとの危惧を抱いている。
願わくば、本書を読んだ新しい読者が、これを機に萩尾原作を読んでもらえればと思っている。
2009-11-15 評価:5 『違和感なく読みました』
原作を読んだのはもう10年以上も前。しかしそのときの感覚が蘇る。
小説でも映画でも、原作を知っているものはどこか違和感があるものだが、
この『トーマの心臓』は原作と同じ世界が描かれていると感じた。
(後でamazonのレビューを読んで驚いた)
ユーリの上品な立ち振る舞いも、秀才が集まる学校の雰囲気も、
オスカーの葛藤も全て森先生の文章で原作同様に美しく再現される。
原作と違うのは登場人物の存在感と臨場感。
言葉で表現されるオスカーの心には、ふれることができそうなくらい近くに感じる。
原作も是非読んでほしい。
両方とも傑作だと思う。
小説でも映画でも、原作を知っているものはどこか違和感があるものだが、
この『トーマの心臓』は原作と同じ世界が描かれていると感じた。
(後でamazonのレビューを読んで驚いた)
ユーリの上品な立ち振る舞いも、秀才が集まる学校の雰囲気も、
オスカーの葛藤も全て森先生の文章で原作同様に美しく再現される。
原作と違うのは登場人物の存在感と臨場感。
言葉で表現されるオスカーの心には、ふれることができそうなくらい近くに感じる。
原作も是非読んでほしい。
両方とも傑作だと思う。
2009-11-12 評価:3 『確かに森博嗣の作品ではあるが、ノベライズにしか過ぎない』
本書を読む前、再度、原作を読んでみた。しかしやはりわかったとは言えなかった。いや子どもから大人、少年から青年へ成長する時期を切り取った魅力にあふれる叙情的な作品であること否定するつもりはない。ただぼくには多くの人が語るようには「理解(わか)った」と言い切れない。
基本的にノベライズ(小説化)作品はあまり読まない。もととなったオリジナルの作品、映画やマンガ、TVドラマを、敢えて小説に落とし込む意義をあまり見出さない。今回、本書を手に取ったのは「敢えて」である。「あの名作」だから手にとったのではない。あの名作をなぜ少女マンガのファンであった作家が敢えてノベライズ(小説化)に挑んだのか気になったからだ。おそらくどんな書き方をしても熱狂的なファンには受け入れられない。そのことを作家は、同じ少女マンガのファンとして知っている。それなのになぜ敢えて書いたのか。それがわかればと思った。そしてまたぼくがわからなかった原作の真の魅力を理解するためのきっかけになるかもしれないと思った。
しかし、残念ながら本書はぼくの期待に応えてはくれなかった。ユーリの同室のオスカーを語り手に選び、モノローグの形式で書かれた小説は、マニアでもないぼくにとっては決して原作の雰囲気を壊しはしない作品であった。そしてまたぼくの知る森博嗣という作家の作品でもあった。ただ残念なのは、決して原作を越えるものでもなく、また森博嗣という作家のオリジナルの作品にもなりえていない。原作があっても、そこに森博嗣という作家のオリジナルの作品になりえているならばまた評価のしようもあるだろう。しかし本書は森博嗣の文体で、森博嗣の作品であることは間違いないのに、そこまでで終わってしまった。原作を大きく逸脱することもない代わりに、原作をなぞるだけで終わってしまった。もし原作がなく、単体の小説として存在したなら本書は心を打たれる作品なのかもしれない。しかし本書は明らかに原作のノベライズであり、ノベライズに過ぎない。
マニアからすればあのシーンやあのセリフがないとかなぜ日本を舞台(!)にしたのかとか、自分の大事な作品を穢されたような想いを抱くのかもしれない。そういうファン心理を当時からの少女マンガファンであったこの作家が気づかないはずはない。
シーンやセリフの選択はともかく、なぜヨーロッパであるはずのギムナジウムを舞台にしないで、「日本」を舞台にしたのだろう。しかも登場人物たちを日本人の名前に変えるのでもなく、本書では原作どおりのカタカナの名前を呼び名として使い続けながら。
舞台設定を日本にしたということは、作中で説明されるのでわかるのだが物語の流れからしても決して舞台が日本である必要もない。また作中で説明がなければ、日本が舞台であることも意識されない。
そのことに呼応するのだろうか、本書では「国家のために」という言葉が使われていることがとても気になった。違和感。原作にはない「国」という存在を控えめに強調すること。それは本書にとってどういう意味があったのだろうか。
原作ファンでなく原作を知る者として本書は、決して悪いものではなかった。しかしそれ以上のものもない。原作発表当時のものではない、原作漫画家による数点の挿画は美しいものの、そこにまた何かを読み取ることもできない。原作を知っている人間は読んでみてもよい一冊かもしれない。ただ原作を知らない人間なら、わざわざこの小説を読むなら、わざわざ原作を読むことを勧めたい。
基本的にノベライズ(小説化)作品はあまり読まない。もととなったオリジナルの作品、映画やマンガ、TVドラマを、敢えて小説に落とし込む意義をあまり見出さない。今回、本書を手に取ったのは「敢えて」である。「あの名作」だから手にとったのではない。あの名作をなぜ少女マンガのファンであった作家が敢えてノベライズ(小説化)に挑んだのか気になったからだ。おそらくどんな書き方をしても熱狂的なファンには受け入れられない。そのことを作家は、同じ少女マンガのファンとして知っている。それなのになぜ敢えて書いたのか。それがわかればと思った。そしてまたぼくがわからなかった原作の真の魅力を理解するためのきっかけになるかもしれないと思った。
しかし、残念ながら本書はぼくの期待に応えてはくれなかった。ユーリの同室のオスカーを語り手に選び、モノローグの形式で書かれた小説は、マニアでもないぼくにとっては決して原作の雰囲気を壊しはしない作品であった。そしてまたぼくの知る森博嗣という作家の作品でもあった。ただ残念なのは、決して原作を越えるものでもなく、また森博嗣という作家のオリジナルの作品にもなりえていない。原作があっても、そこに森博嗣という作家のオリジナルの作品になりえているならばまた評価のしようもあるだろう。しかし本書は森博嗣の文体で、森博嗣の作品であることは間違いないのに、そこまでで終わってしまった。原作を大きく逸脱することもない代わりに、原作をなぞるだけで終わってしまった。もし原作がなく、単体の小説として存在したなら本書は心を打たれる作品なのかもしれない。しかし本書は明らかに原作のノベライズであり、ノベライズに過ぎない。
マニアからすればあのシーンやあのセリフがないとかなぜ日本を舞台(!)にしたのかとか、自分の大事な作品を穢されたような想いを抱くのかもしれない。そういうファン心理を当時からの少女マンガファンであったこの作家が気づかないはずはない。
シーンやセリフの選択はともかく、なぜヨーロッパであるはずのギムナジウムを舞台にしないで、「日本」を舞台にしたのだろう。しかも登場人物たちを日本人の名前に変えるのでもなく、本書では原作どおりのカタカナの名前を呼び名として使い続けながら。
舞台設定を日本にしたということは、作中で説明されるのでわかるのだが物語の流れからしても決して舞台が日本である必要もない。また作中で説明がなければ、日本が舞台であることも意識されない。
そのことに呼応するのだろうか、本書では「国家のために」という言葉が使われていることがとても気になった。違和感。原作にはない「国」という存在を控えめに強調すること。それは本書にとってどういう意味があったのだろうか。
原作ファンでなく原作を知る者として本書は、決して悪いものではなかった。しかしそれ以上のものもない。原作発表当時のものではない、原作漫画家による数点の挿画は美しいものの、そこにまた何かを読み取ることもできない。原作を知っている人間は読んでみてもよい一冊かもしれない。ただ原作を知らない人間なら、わざわざこの小説を読むなら、わざわざ原作を読むことを勧めたい。
2009-10-30 評価:1 『本望であったのは著者だ。』
『トーマの心臓』を題材にした同人誌的な作品、と言えばわかりやすいかもしれない。
ある意味で二次創作的な作りとなっている。だから星は一つとする。以下はその理由。
オスカーが主人公ということ、舞台を日本に置き換えたことなどが良くも悪くも「森博嗣」の世界観となっているんじゃないかな、と。原作の大ファン(信者に近い)の著者が小説という枠組みの中でどこに視点を置くのかを考え、オスカーを選んだ。そうすることで萩尾先生の『トーマの心臓』を別の視点から心理的に追いかけるという設定になっており、森博嗣の視点が原作に介入し、ある種の「こうだったんじゃないか」的分析が垣間見えるのもまた同人的である。つまり、原作を知っていた方が入りやすい。また、これを読んでから原作に入っても良い。原作とワンセットで購入もしくは販売するのが正しい。そういったスタンスだ。と、なると萩尾先生のファンには物足りなく、森博嗣のファンにとっても消化不良な印象が否めない。結果、微妙な作品と感じる。ただ伝わってくるのは、森博嗣はこの仕事を受けて本望だった、ということかな、と。気持ちが入りすぎてるよ、文章に!と思った。綺麗すぎるというか。ノベライズというよりもリスペクトされた別作品だと思う。だから衝動買いより、冒頭の部分を少し読んでからの購入をお勧めする。なお、『スカイ・クロラ』の美しさ、哲学要素を求めているのならばこの作品は否。『まどろみ消去』所収の「純白の女」や「キシマ先生の静かな生活」が好きな人向け。つまり、彼の短編を許容した人向けだろう。ぎゅっと何かは詰まってる。
ある意味で二次創作的な作りとなっている。だから星は一つとする。以下はその理由。
オスカーが主人公ということ、舞台を日本に置き換えたことなどが良くも悪くも「森博嗣」の世界観となっているんじゃないかな、と。原作の大ファン(信者に近い)の著者が小説という枠組みの中でどこに視点を置くのかを考え、オスカーを選んだ。そうすることで萩尾先生の『トーマの心臓』を別の視点から心理的に追いかけるという設定になっており、森博嗣の視点が原作に介入し、ある種の「こうだったんじゃないか」的分析が垣間見えるのもまた同人的である。つまり、原作を知っていた方が入りやすい。また、これを読んでから原作に入っても良い。原作とワンセットで購入もしくは販売するのが正しい。そういったスタンスだ。と、なると萩尾先生のファンには物足りなく、森博嗣のファンにとっても消化不良な印象が否めない。結果、微妙な作品と感じる。ただ伝わってくるのは、森博嗣はこの仕事を受けて本望だった、ということかな、と。気持ちが入りすぎてるよ、文章に!と思った。綺麗すぎるというか。ノベライズというよりもリスペクトされた別作品だと思う。だから衝動買いより、冒頭の部分を少し読んでからの購入をお勧めする。なお、『スカイ・クロラ』の美しさ、哲学要素を求めているのならばこの作品は否。『まどろみ消去』所収の「純白の女」や「キシマ先生の静かな生活」が好きな人向け。つまり、彼の短編を許容した人向けだろう。ぎゅっと何かは詰まってる。












原作を深く愛する者として、「おぉ、こういうことになるのかぁ」と一種不思議な感慨を持って読みました。男性作家の手によると、オスカーもユーリもより男性らしくなるのだなぁ、と。エーリクはかわいいけど。
戦前の、大正くらい?日本の全寮制男子校、しかも一貫校で大学院まであるのかなぁ…というような設定、どういう学校なんだろう…?疑問
森版『トーマ…』では、ユーリはなぜ心を閉ざし、トーマはなぜ死なねばならなかったのか、ということよりは、語り部であるオスカーの成長の物語としての側面が強いと感じました。
サイフリートは単なるボンボンのワルだし。(その思想において悪魔的で、邪悪な天才ではないよなぁ)
だから、これを最初に読んだ若い読者の皆様は、オスカーを主人公だって思って読めば、それはそれとして「腑に落ちる」部分もあるのかなぁ。
だってオスカーの生い立ち自体とても刺激的。オスカーにとってユーリもエーリクも大切な友人。そうです、そうです。
私は原作でも断然オスカー派なんですが。(彼は待っていたんですよ!ずっと。)
トーマの死も、エーリクの母の死も、オスカーの母の死でさえも、過ぎ去っていくもの、生きている側はそれを乗り越えて前へ進むものであり…いや、それはそうなんだけど。
ストーリーの後半とはいえ、わりと早目な部分でユーリが自分の将来をあっさり語ってしまうっていうのに対しては、原作派としてはネタばれ感があり、少々残念。
もともと原作はキリスト教的な罪の意識とかがベースにあるから、日本に移しかえると無理が生じるよなぁ、と感じていました。
私は、深い絶望と苦しみの果てに、再び光を見出し、飛翔して、神とひとり向き合うユーリに、キルケゴール的な哲学、いわゆる倫理の授業でいうところの「宗教的実存」を生きる、ってこういうこと?なぁーんて思っていたものだから。
ユーリが主人公、というのが原作、なんだと思います。
「登場人物の名前が同じ、まったく違う物語なのだ」と理解しました。これはこれで良いのです。
だからこそ、是非原作も読んで比較して、楽しんでいただきたい。
(くどいようですが、原作のためにはユーリの告白は早すぎるんだって)